サヴァン症候群のことはご存知でしょうか?
僕は、昔の映画「レインマン」で知りました。知的障害者が、時として天才的な能力を有することがありますが、この病状を「サヴァン症候群」と言うそうです。
ダスティンホフマンが扮する主人公は、知的障害者なのですが、驚異的な計算能力を有しており、ラスベガスのカジノで、その計算力を弟役のトムクルーズが利用して、大儲けをするエピソードがありました。
時として、音楽や絵画にも並外れた才能を有することがあり、昔読んだ絵画論の本で知ったのですが、サヴァン症候群のナディアという女の子が3歳半の時に描いた絵が印象に残っています。
Googleで、「ナディア、馬の絵」と複合検索すると、この絵が出てきます。
3歳半で、大人でも描けないような精密な馬を描いていますが、ナディアはその後、特殊な訓練を経て、知的障害が緩和するのですが、通常レベルに戻るにつれ、この驚異的なデッサン力が失われたのです。
数年後描いた馬が、年相応の稚拙な絵に変わっているのが驚きです。
知的障害があった画家の山下清は、一度見た風景は、その場を離れても、いつでも写真を撮ったように脳裏に浮かんできたといいます。
一説によると、人の「才能」は、常人から著しく欠けた能力を埋め合わせるため、何か別の能力が部分的に突出したものだ、と言われています。天才的な芸術家、音楽家に奇人変人が多いのはそのためでしょうか。知人の美大生で、これに憧れて、奇人変人ぶっていた人がいましたが、天才の奇人変人は生まれついてのものです。
今回、サヴァン症候群を調べるため、ウキペディアを見たのですが、世界にはサヴァン症候群の音楽家、芸術家が沢山いることを始めて知りました。
また、他説によると、本来人間には、誰にでも芳醇な記憶力も音楽的才能も絵画的才能も有しているのだが、言語を獲得したことにより、この能力を封印しているのだ、というのです。
この説を裏付ける証拠として、事故で脳のある部位(前部側頭葉)を傷つけると、突然音楽的才能、絵画的才能に目覚めることがあるようです。
誰もが本来素晴らしい才能を有しており、それを封印しているだけ、と考えると、ちょっと楽しいですね。
例えばハンドメイドを含めた、自分で作るアートの喜び、楽しさを知らない人は多い、と思います。
いや、知っている人の方が少数派でしょう。
こんな楽しい事を知らないなんて、人生を損している、と不遜にも、過去の僕は思っていました。
かつて作家の山口瞳が「酒を飲まない人は、人生を半分しか生きていない」と豪語したように、楽しさを知っている人は知らない人に対して一段高い処から憐れむようです。
でも、その楽しさを知らない人は経験したことがないのだから、実は、特段の不足・不満を感じる必要はないのでは、と最近思うようになりました。
僕は酒が飲めないのですが、酒を飲まない人は、人生を半分しか生きていないといわれても、ちっとも悲しくないし、不満もありません。
かつては飲めないことが悔しく、楽しそうに飲み歩く人を羨んでいましたが、今は、ふーん、そう思う人もいるのか、といった程度になりました。
結局、人生に盛り込める楽しさの量は、上限があると思います。人生に終わりがある限り、この世のすべての楽しさには出会えないでしょうし、お酒の楽しさを知っている人だけが、人生の楽しさの上限まで味わっている、ということはないし、アートやハンドメイドの楽しさもしかりです。
結局、その楽しさに出会う機会、体験する機会がなければ、その人にとってその楽しさは、この世に存在しなかったのですから、別段、どうということはないのです。
一生涯騙されれば、騙されたことにはならないのと、同じでしょうか?
だから、人が楽しんでいることを羨む必要はない、とある時から思うようにしました。
自分の知っている楽しさ、自分が人生で出会えた楽しさをMAXにすることだけを、考えていけばいいのではないか、と思っています。
楽しいこと、好きなことが何もない、という人はいないでしょう?
それに、死ぬ直前まで、どんな楽しいことに出会えるか、わからないですよね(そう考えるとワクワクしますね。)。
物を作る人、ハンドメイド作家が、自分の作品を正確に自己評価するのは、とても難しいことだと思います。
過大評価か、過小評価のどちらかに偏るように思います。
自分の作品の評価は、大抵は他人の評価から推測して、判断することになるのですが、この他人様の範囲によって評価や評判が大きく異なってくるから厄介です。
僕は、昨年の12月以前は、友人知人に作品を見せることと、仲間内の作品展に出品することが、「他人の評価」のすべてでした。
そうすると、どういうことが起こるかというと、誉め言葉しか聞こえてこないのです。
これは自慢話をしているのではなく、殆どの人にあてはまることではないか、と思います。
友人知人は、今後の付き合いもあるので、そんなに厳しいことは言わない。良い部分だけを拾い出して評価してくれます。数年に1回の個展なら、友人知人に褒められて、ソコソコ売れるし、ずっと勘違いして、制作していくこともできます。まあ、気分は良いでしょうね。
これが長く続くとどうなるか。自信過剰になります。自分も大したものだ、と思うようになります。作品の質が向上しないのでは、と思われます。
これとは逆に、常に友人知人の知らないところで、作品を発表すれば、最初は大変厳しいことになります(ものすごく安い価格で出せば別の理由で売れますが、それはその人の作家性で売れたのではない、と思います。僕も、この値段なら、お土産にいいか、などと思い、買うことがあります。)。
諸先輩の話を聞くと、このような状況では、最初は誰もがものすごく苦労するようです(まあ、僕もこの段階ですね。)。
初めてのイベント出展で、人形やぬいぐるみのような単価の高いものなどは、1点も売れない、ということも多々あるようです。
(先輩の作家に、人形やぬいぐるみの場合、最初のイベントでは、1点売れれば、「良し」と思え、とアドバイスされました。)
その人の作品に魅力とオリジナリティがあれば、徐々に認知度が高まり、じわじわと売れ出す、というのが一般的。
もしも、作品にすごく魅力とオリジナリティがあって、最初からブースに人だかりができるような人気ぶりだと、どうでしょうか。
おそらく、スタート時点で、(例外もあるでしょうが)作家としての頂点を迎えてしまい、余程自己分析ができる人でないと、何故人気が無くなったか分からないうちに、飽きられて、凋落していくように思います(この点は、人気商売だから、芸能人と同じなのだな、とつくづく思います。)
このブログを読んでいる方で、これからイベント出展を考えている方、「初めから注目されない方が、ラッキーだ」と思ってくださいね!
先日、ふとネットで観たブログの記事に書いてあったこと。
「好きなことがわかっていて、好きなことをしている人は、それだけで人生OKである」と書いてあり、全く同感だと思いました。
このブログの作者は、さらに、事を成すにあたって、上手と好きは全く別物である、と言っています。
中々気づかないことですが、まさにその通りだと思い、目からウコロが落ちました。
たまたまやってみたら人よりうまかったので、やり続けていることと、下手でも、好きで好きでしょうがない、止められないから、やっていることとは、まるで別次元にいるくらい、事を成すにあたる気持ちが違うと、僕も思います。
上手が動機なら、自分より上手な人の前にでたら、ヘナヘナとやる気が萎えてしまう。
自信がぐらついてしまう。上手な人に嫉妬してしまう。
その点、好きを動機にしている人は、とても強いと思います。
(とはいっても、なかなか、上手な人に嫉妬を感じないでいるのは、難しいですが・・・。ハンドメイドの展示会やイベントでは、いつも心が揺らぎます。)
僕自身は、創作物を鑑賞する時、何度も書いていますが、テクニカルな部分よりは、個性的なオリジナルな部分に惹かれますが、時々、作品を見て、「この人は、大好きな気持ちを持って、楽しみながら作っているな。」と感じることがあり、その時はこちらにも、その楽しさが伝わってきます。観ていて、幸せな気分になります。
テクニカルな作品、職人技に感心することもありますが、それだけでは物足りない感じがします。
人形(特に、ヒト型)には、結構その人のドロドロとした情念が湧き上がってくるような、ダークな作品が多いのですが、自分自身は、癒されるようなホッする作品か、楽しさが伝わってくるような、そんな作品を作りたい、と思っています。
若いころは、もっぱらダークな作品に惹かれていたし、自分の絵も、暗めの難解なモチーフを選んで描いていたのですが、不思議なものです。
観て頂く方に、ほっとしてもらうためにも、(結構苦しんで作ることもありますが)、出来る限り、自らが、楽しんで作ることを、心がけていきたいな、と思います。
自己表現の手段として、僕は絵と造形、ハンドメイド作品の制作を選んだのですが、楽器を選ぶ方もいます。
10代、20代では、歌うことも含め、音楽を選ぶ人の方が多いのでは?
楽器演奏を通じて自己実現する人は、物創りと比べ、本当に大変なことだな、と実感しています。
なぜこんなことを書くかというと、実は10年来、ウクレレを習っていて、先週末に年1回の発表会があって、つくづくそう思ったからです。
ジェイクシマブクロに憧れて初めたウクレレ演奏は、僕にとって、ハンドメイド作品の合間に、気分転換に行うもの。真剣味の足りない、娯楽なのです。でも、年1回の教室の発表会では、数カ月前から力が入り、何度も練習を重ね、この時だけは、真剣に取り組みます。
今年の演奏会では、練習では、ほとんど間違ったことのない個所を間違って演奏してしまい、その後ショックで、ガタガタになってしまいました。
その時、「ああ、あんなに練習を重ねて、自分が納得のいく演奏が出来るようになっても、本番でうまく弾けなければ、練習は、本番の失敗をカバーしれくれない。楽器演奏は、なんて儚くて残酷なのだろう。」と思ったのです。
勿論、絵や造形にも、現代アートではライブで行うこともあるし、音楽も作曲行為は、作品として評価されるものですが、音楽のメインの舞台は、ライブ、生演奏、絵や造形は、出来上がったものを鑑賞してもらうことは、間違いのないことです。
演奏のプロは間違わないぞ、という突っ込みが入るのは承知していますが、知り合いのピアニストに聞いたところ、やはり小さな間違いは毎回あり、聞く人が聞いたらわかる、と言っていました。
いや、音楽だけでない、スポーツや、囲碁将棋などの対戦ゲームも、まさに、ライブこそすべて、実に儚いものだなあ、と思います。
絵など、気のすむまで何度も書き直せばいいし、陶芸などは、完成した作品のうち、気に入ったものだけを発表すればいいのですから。
画家や造形作家のマスターピースが、数限りない失敗の果てに生み出されたことは当然なのですが、少なくとも、不本意な失敗品を、世に出すことはないと思います。
小心者の僕としては、自己実現に、ライブで表現するものを選ばないで良かったな、とつくづく思います。
以前、このブログで、今のハンドメイド作家は恵まれている、ということを書きました。
~今から数十年前は、自分の作ったもの、描いたものを発表する場が少なく、ましてや売る場や機会など殆どなかった。
今では、SNSやBlogに手軽に自分の作品をアップできるし、数あるネット上のマーケットプレイスで販売もできる。
ギャラリーは至るとこにあるし、毎月全国のどこかで、ハンドメイドに関するイベント、展示会が開催されている。デザインフェスタの存在など、以前は想像も及ばないこと。
ハンドメイドの作品を扱う雑貨店も数多くある。
売る立場の人も、買う立場の人も、どちらにとっても、とても有難い環境ではないか。
ということを、友人のデザイナーに話したら、友人は、私はそうは思わない、むしろ昔の方が良かったのではないか、という思いもよらない答えが返ってきたのです。
友人が言うのには、
「周囲のクリエーター達は、簡単に自己表現の場が与えられているので、小さなところで満足している。まあ、この程度でいいか、自分の作品を認めてくれる人もいるし、と考えて、ほどほどのところに落ち着いていしまっている。もっと出来ることがあるのに、やろうとしない。」
まー、おっしゃる通りですが。
芸術は命がけで取り組むもの、ということは否定しません。でもすべての自己表現が命がけである必要はない。
確かに、イベントの参加者も、会社勤めのイラストレーターやデザイナー、学生、主婦が多く、自分の作品に人生をかけている人は少数派です。
作品を販売するだけで、食べていける人の割合は、今も昔もそんなに変わらないと思います。
でも、個人的には、とても良い時代になって来たな、と思っています。
一部のプロフェッショナルな人だけに自己表現の場が許されているなんて、淋しい、と思います。みんなが自己表現に参加し、お互いの表現を認め合う時代がやってきたのです。おそらく、この傾向はますます加速していくのでは?
数十年後に、殆どの人が、何らかの自己表現手段を持っているような、そんな素敵な時代がくればいいなと思います。
昨日、「ネイチャーアニマルワンダーランド2016」に出展してきました。毎年、ドールワールド・リミテッドと併設しての開催です。
動物の人形・ぬいぐるみを中心としたイベントでは、おそらく最大ではないでしょうか。浅草の産業貿易センターで1日のみの開催、12時から17時までの5時間だけなのですが、大いに賑わっていました。
1週間前、デザインフェスタ.vol44出展したばかりなので、この二つのイベントを少し比較しますと、人形ぬいぐるみの出展者に限っていえば、こちらの方が、お客さんに愛好家が集まっているだけあって、じっくりと見てもらえます。
1週間を空けての出店なので、ディスプレイと、展示内容がほぼ同じでしたが、自分に限って言えば、立ち止まってくれるお客さんは感覚的に3倍、売れた点数は2倍でした(デザインフェスタは1日8時間の開催ですから、これを考慮すると、3倍近く売れたことになるでしょうか?)
今年は、色々な種類のイベントに出ましたが、やはり、イベントごとの客層によって見てもらえる作品、手に取ってもらえる作品は相当違ってきます。今回は、動物のアクセサリー類が、結構手に取ってもらえたのですが、デザフェスでは、なんと1度も、触っても、もらえませんでした(なにしろ、デザフェスでは、アクセサリー専門の作家さんが、それこそ山のように出展していましたから。)。
今後は、イベントごとの特性に注意を払い、展示スタイルや出展内容を変えていきたいな、と思います。
さて、僕の右隣のブースは、ぬいぐるみ界の鬼才、金井俊子さんでした。
あんなに個性的で強烈な作家の隣では、自分の作品が目立たなくなるようで嫌だな、と思ったのですが、あまりに作風が違うので、大して影響はなかったようです。
ご存知の方も多いでしょうが、とにかくパワフルで、エネルギッシュな作風です。
自由奔放で、ぶっとんでいます。写真で、その雰囲気が伝わるでしょうか?
わりとご高齢と見受けられるのですが、一体どこにそのパワーと発想力あるのか探ろうとしたのですが、どうやら、何に対しても全力で取り組まれる方のようにお見受けしました。
娘さんが、金井さんのパワーをコントロールしているようでした。
固定ファンも多く、お客さんも、金井さん目当てで来ていました。
あの方の、パワフルな言動を(最初は嫌だなと思ったくせに)1日にわたって、観察することができて、ラッキーでした。
引き続き、デザインフェスタvol44に出展した感想について、書いていきます。
僕の右隣の方は、出展回数10回目の大ベテランで、ディスプレイが洗練されていて、出展種類も少なく、もったいないくらいのゆったりスペースで展示していましたが、試行錯誤の結果、そのスタイルに落ちついたようです。
左隣りは、大学時代のゼミ仲間で、グループ出展していた方々でしたが、僕と同じゴチャゴチャ系でしたが、中に一人、写真の「うつせみ標本屋」さんの作品が、圧倒的インパクトがあり、気づいた人(小さいので気づきにくい。イラストで大きく表示すると、もっと大勢の人の足を止めたでしょう。)の大半が、足を止めていました。
本物のカブトムシのおなかをくりぬいて、ゼンマイを埋め込んでいるのですが、強烈な世界観ですね。
まだ作り始めたばかりだそうで、残念ながら作品が小さいことと、作品点数が殆どないことから、今回は販売には結びついてなかったようですが、きっと真似されるだろうなと思い、他人事ながら、ちょっと心配しました。
また、僕の前方左隣のイラストレーターは、初回出展ながら、実にさっぱりとしたディスプレイで、作品のポストカードと、自分のオリジナルキャラクター入りグッズ(メモ帳、トートバック、マグカップ)たった3点ほどを展示するのみ。
最初見たとき、なんて勿体ない展示だ、と思いましたが、よくデザフェスを研究されています。
しかも、若い女性が、探し当てたように、ピタッとブースの前に止まる。
この方に聞いてみたら、過去からずっと、Instagramに洒落たイラスト作品をアップし続け、900人のフォロワーを獲得した後、デザフェス出展をインスタグラム上で周知して、FANを引き付けたようです。(僕はアホですから、インスタで、周知することさえ思いつかなかった。まあ、フォロワーの数が違いますので、現時点でこの作戦は使えないですが。)
出展者も、お客さんも、毎年外国人の割合がどんどん増えています。僕の斜め向かいの出展者も、韓国の若い女性でした。
パッと見、欧米人が増えたのはわかるのですが、実際は、相当数の中国人観光客がいるらしく、僕の作品を買った方の半数は中国、台湾の方でした!
場内アナウンスも中国語が流れていました。
なお、次回から、出展会場が、西エリアから東エリアに変更になるようです。
会場が広くなるのでしょうか?応募は、相変わらず抽選のようですが。
以前のように、希望者全員が先着順で出展出来るようになるといいのですが。